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62年前、母の体験

62年前の3月10日。
東京はB29による大規模な空襲にあいました。
そして自分の母はその時、現在の墨田区両国で被災したのです。
母の空襲体験はこれまで聞くことがありませんでした。
聞いても話してくれることはなかったのです。

しかし昨年、叔母の葬儀の時に住職と会話しているときにふとその話になり、初めて聞くことが出来たのです。

その前に東京大空襲とはどのようなものだったのか。
Wikipediaからの引用です。
3月10日の大空襲は、日本の軍需産業が中小企業が生産拠点となっているために市街地と市民そのものを攻撃対象とし、日本軍には低高度での有効な対空火器が存在しないことに注目した故に行なわれた低高度夜間爆撃である。アメリカ軍の参加部隊は第73、第313、第314の三個航空団が投入された。

1945年3月9日から10日に日付が変わった直後に爆撃が開始された。B-29爆撃機325機(うち爆弾投下機279機)による爆撃は、午前0時7分に深川地区へ初弾が投下され、その後、城東地区にも爆撃が開始された。0時20分には浅草地区でも爆撃が開始されている。

投下された爆弾の種類は油脂焼夷弾、黄燐焼夷弾やエレクトロン焼夷弾などであり、投下弾量は約38万発、1,700tにのぼった。日本が中国戦線で数年に渡って繰り広げてきた重慶爆撃の全投下量は1万8000トンであり、その10%に相当する量を一夜にして投下したのであるから、この空襲の規模の大きさを窺い知ることが出来る。

当夜は低気圧の通過に伴って強風がふいており、この風が以下の条件と重なり、大きな被害をもたらした。

* 警戒用レーダーのアンテナを揺らしたため、確実に編隊を捕捉できず空襲警報の発令を極端に遅れた(発令されたのは初弾投下後の0時15分)。
* 「低空進入」と呼ばれる飛行法を初めて大規模実戦導入したことで、爆撃機編隊を通常よりも低空で侵入させ、そのまま投弾させたため、着弾範囲が以前より精密だった(逆に火災による強風で操縦が困難になり、焼夷弾を当初の予定地域ではない場所で投下した記録もある。そのため、火災範囲がさらに広がった箇所もある)
* 強風が火勢を煽り、延焼を広げた
* 調布・入間・成増・所沢・厚木・柏・松戸等、東京近郊の飛行場に配備されていた陸海軍戦闘機隊の発進を妨げたため、ただでさえ絶望的に少ない迎撃のチャンスを奪った(通常は戦闘機が到達できない高度から爆撃を行っていたが、この日は違った)

これら複数の要因が重なり被害が拡大。8万人以上(10万人ともいわれる)が犠牲になり、焼失家屋は約27万8千戸に及び、東京の3分の1以上の面積(40平方キロメートル)が焼失した。


3月9日の未明、母は父(母のです 自分から見れば祖父)に突然起こされ、必要最小限の荷物だけをまとめて弟と妹を連れて逃げるように言われたそうです。
その時はすでに表は焼夷弾の炎に包まれていました。

父は銀座の用品店に勤めており、普段はとてもおしゃれな人だったそうですが、その時は荒縄をたすきがけにかけて壮絶な姿をしていたそうです。
父は仏壇を家の前の電信柱にくくりつけ、子どもたちと妻を大八車に乗せて避難を始めました。

当時の母の家は旧両国国技館の裏手にあり、何かあったときは両国駅に避難するように父から言い含められていたそうです。
両国駅周辺は空襲が増えるにつれ、「建物疎開」でほとんどの建物が壊されて撤去されており、空き地になっていたそうです。
空き地になっていれば燃えるものはない。
だから空襲にあったときは両国駅前に避難することになっていたそうです。
旧両国国技館は両国2丁目の回向院の旧境内にあり、そこから両国駅までは現在の地図を見ると約500メートル。
火の海の中を母の一家は両国駅を目指しました。

当時の木造家屋は焼夷弾により燃え上がり、さらに強風により炎が舞い上がる地獄だったそうです。
その中をとても駅まで逃げることは出来ないと思った母は父に「近くの学校に逃げ込もう」と提案したそうです。
学校は鉄筋で出来ており、燃えることはないと思ったそうですが、父に即座に却下され、何が何でも両国駅まで逃げ切ると言われたそうです。
火の海の中をどこをどう通ったのか、なんとか両国駅まで逃げ切ることが出来たそうです。
そこは炎も襲ってこない安全地帯になっていました。

そして母は母を含めた5人の兄弟、両親と奇跡的に一家そろって助かったそうです。

母は逃げる途中に学校へ避難することを主張したのですが、学校へ避難した人たちは燃える炎に鉄筋の建物が包まれ、中で蒸し焼きになり亡くなったそうです。

空襲からあけた朝、家に戻ってみると当然全て焼け落ちていましたが、父が家の前の電信柱にくくりつけた仏壇はしっかりと残っていたそうです。
なんというかその時は父のあまりの要領の良さに感心したと思ったそうです。
家の前に置いておいたら誰かに踏みつぶされてしまうし、もって逃げることは出来ない。しかし電信柱にくくりつけておいたら誰も気にとめないと判断したそうです。
そのために荒縄を肩からかけて避難の準備をしていたのです。

家を焼かれた母の一家は空襲にあって家を無くした罹災証明書をもらうために、区役所が臨時で作った窓口(当然屋外です)に母とその弟を並ばせました。
並んでいる人たちは皆一様にススで真っ黒になり、疲れ果てた顔をしていたそうです。
そのうち前に並んでいた人たちがしきりに母の方を見てなにか話しては前を向き、振り返っては何かを話していたそうです。
何かと思っていたそうですが、母もふと後ろを振り返ると、すぐ後ろに赤ん坊を背負った女性が並んでいたのですが、その背負われた赤ん坊はグッタリとしており、息をしている様子は無かったそうです。

罹災証明をもらった一家はとりあえず、親戚がいる千住に向かって移動を始めました。
歩いていく途中は焼死体だらけ。その中を歩いていき、隅田川に架かる橋(蔵前橋か駒形橋)にたどりつくと生き残った人たちが連絡先を書いた紙がたくさん貼り付けられていたそうです。
そして浅草に入ったところで、現在の浅草ビューホテルの前に当たるところに(当時はなだらかな丘になっていたそうです)数え切れないほどの黒こげの焼死体が並べられていました。
その光景は今でも目に焼き付いていると話していました。
そしてその光景を見たために今でも浅草には行きたくないとも話していました。

その後は母の一家は千住の親戚の家からさらに新潟の親戚を頼って疎開し、そこで終戦を迎えたのです。

母は毎年夏にあちらこちらで行われる花火大会が嫌いです。
見物に行こうともしないし、ましてや窓から見ようともしません。
それは打ち上げ花火が落ちてくる様子が焼夷弾が落ちてくる様子とそっくりだからだと話しました。
爆撃機から落ちてくる焼夷弾がたくさんに割れて、火を噴きながら落ちてくるその様子が花火にそっくりだというのです。
その様子は一瞬美しいとも思える光景だと言っていました。

これが62年前の母の体験です。

母は子どもの頃の写真が1枚しかありません。
それは小学校に入学したときのクラス全員で写した記念写真です。
その写真もほんの数年前、当時の小学校のクラス会が開かれ、田舎の疎開していた同級生が複写して配ってくれたものです。
一度その写真を見せてもらいましたが、その写真に写っている約50人中、半分の子どもたちは東京大空襲で死んだか行方不明になったそうです。

どんなに苦しいことになっても母はこういいます。
「生きていれば何とかなるものよ」。
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Comments

この市民虐殺を目的とした、東京大空襲を指揮したカーチス・ルメイ少将は、1964年、日本政府より勲一等旭日大綬章を授与された。一人殺せば殺人者だが、数万人を焼き殺すと英雄になれる。とんでもない話だ。
くみちょ | 2007/03/11 10:21 AM
実際に経験をした方のお話と言うのは、訴求力が違いますね。優しい言葉使いながら鬼気迫るものが感じられます。日本国民として、いろんな意味でこの戦争の結果を生かしていきたいです。
kimkaz | 2007/03/11 12:57 PM
最近テレビでよく見る霊能者(オーラだとか前世だとか)が「浅草は素敵な街ですね」とか語りながらテレビ収録をしておりました。

簡単に生死や魂について語る人間を信用し
自分の思考を停止するような雰囲気を恐ろしく感じるこの頃です。
ふむ | 2007/03/11 05:39 PM

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